5/29の肉体改造
本日の肉体改造
運動時間:65分42秒
走行距離:31.14km
消費カロリー量:709kcal
BGM:Hard Normal Daddy / Squrepusher
何だか最近の投稿はクルマネタばかりだ。
ここらでひとつ違う話をば。
先日自分が参列した葬式は仏式ではなく神道の葬式であった。
仏式とはまたヒト味違う葬式であった事が非常に興味深い。
宮司、つまり神社の神主さんが亡くなった方の霊を奉る事で、
故人は氏神様(その家を守る神様)の一員となる第一歩を踏み出す。
宮司は故人の一生を詔(みことのり)として読み上げ、
参列者はお焼香ではなく洗米をひとつまみ皿に盛る。
さらに宮司と参列者は榊に紙垂(しで)をつけたものを故人に奉納する。
それを玉串奉テンと呼ぶようだ。これもお焼香のようなノリである。
そして必ず音を立てずに二礼二拍一礼を行う。手を合わせるのではない。
気がついたのは参列者がよく頭を下げる(低頭する)事が度々あるという事。
仏様より神様の方が偉いのだろうか。仏式では低頭する事は無かったと記憶する。
そして何となく式事にうっすら和やかなムードが漂っている。
神道では葬式とは言わず神葬祭と呼ばれる。つまり「お祭り」なのだ。
家族の一人がついに氏神様の一員になる、変な表現だがお祝いに近いのか。
神主さん式の間ずーと微笑んでいたしな。そういう顔なのか?
「この階段を登れば楽になるから頑張れ」と登らされるが、
登り切った先にはさらに高々とした次の階段が待っており、
「この階段を登ればイイ暮らしになるになるから」
というお決まりのプレッシャーを与えられる現代社会において、
「死」はタブー以外の何モノでもない。
イイ暮らしは生きていなければ享受出来ないから。
イイ暮らしを得るために頑張らなければならない現代は、
どうせいつかは死ぬんじゃんという発想は危険極まり無い。
よって「死」というものは隠蔽しなければならないのだ。
だがそれは非常に間違った「死」の捉え方であると自分は感じている。
これは自分の精神世界のかなり深い所で感覚として捉えている事なので、
文章でロジカルに「こうだからこう!」と定義する事はなかなか難しいのだが、
いつかは「死」ぬから頑張らないのではなく、
いつかは「死」ぬから頑張るのでは? と自分は捉えている気がする。
光が強ければ強い程色濃く影を落としてゆくものだが、
逆に考えれば影を強く意識する事で光が映えて来るのではないだろうか?
つまり「死」をしっかり見据える事で「生」を強く意識出来るのではという発想だ。
字面だけを追うと強烈なパラドックスに思えるが、
自分の中ではそのような意識でいれば間違いは無いと感じている。
ちなみに自分は宗教家でも特定の宗教の信者でもない。
しがない仏像ファンではあるが。大日如来とか好き。
「ヒトは死んでも生き返ると思うか?」という質問を最近の小学生にしたところ、
20% が「生き返ると思う」と答えたらしい。日本がちょっと心配。